私たちの言葉は,本当に生きているだろうか?と考えることがある。考えすぎと言われるかもしれないが,その言葉を発する時に,言葉通りの気持ちがきちんと乗せられているかどうかということである。
「お世話になりました。」「ご迷惑をおかけしました。」私はアナウンサー時代,言葉と心の一致を心がけていたので,長崎から佐賀へ転勤してすぐの頃,番組にかかってきた電話で「もしもし,こんにちは。」と挨拶を交わした後,リスナーの方が「いつもお世話になっています。」と言われたことに対し,思わず「いいえ,私は転勤してきたばかりで,何もしていませんけど‥‥‥。」と,つい言ってしまった。この「お世話になっています。」というのは,人間関係を円滑にするため,挨拶がわりに使われている便宜的なもので,実は私も会社で電話の応対をする時に使っているが,相手をよく知らない場合は,やはり形だけの言葉になってしまう。
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「めだかのがっこう」や「小さい秋みつけた」などの作曲で知られる中田喜直さんが,去年亡くなられる前に,コンサートでお会いした時,似たようなことを言われていた。「僕は,日本人は言葉に対して無頓着だと思う。手紙の文で“長い間ご無沙汰していますが,お元気のことと思います”なんて,平気で書いたのが来ると,頭に来る。長い間会っていないのに,どうして元気だというのがわかるんだろう。日本語をちっとも考えていないんだね。」
不祥事を起こした政治家,警察,企業等が「大変申し訳なく,遺憾に思います。」と言うのを耳にする。「遺憾」というのは,国語辞典で「思い通りでなく,残念なこと」。自分の(組織の)犯したことに対して使うのには違和感を覚える。この言葉の裏には,もし,その不祥事が表沙汰にならず,世間の批判を浴びなければ,思い通りになり「遺憾には思わない。」という本音が,見え隠れしているような気がする。
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1974年,当時のニクソン米大統領と,日本の佐藤首相との間で行われた交渉で,首相が使った「善処します。」という言葉は,「I'll take care of it.(何とかします。)」と訳され,アメリカの記者たちの間で「YES」と受け止められて,問題になった。今も日本の政治家たちの言葉はわかりにくい。
こういうことを並べると,日本語の揚げ足取りと言われそうだが,言葉と心の乖離(かいり)は,少なからず,子供たちの教育環境に影響を及ぼしているのではないかと思う。言葉と心の一致がない場合,言葉は虚ろに響き,人は耳を貸さなくなる。言葉は次第に,記号や,飾り,空っぽの単なる音になってしまう。
TV番組のクイズで,大人たちが,ビニールの大きな金槌を手に,相手が間違うと「死ね」と言って,頭を叩く場面がある。初めて見た時,心臓がドキリとした。そして,子供たちは遊びの中で,この言葉を簡単に使っている。ある日,普段は優しく,思いやりがあると思っていた若い女の子が,友達に向かって,ためらいもなく使ったのを耳にして,どんなつもりで言ったのか尋ねてみた。彼女は,聞かれたことそのものに驚き「別に何も考えなかった。」と言う。
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記号化された言葉は,子供たちの周りにますます増えている。「言葉」を失うと,同時に「心」も失ってしまう。「言葉」を発する時には,本当に心をこめて,本当に思っている言葉を使いたい。それは,相手を思いやることに繋がっていく。万が一,相手を傷つけたなら,その意味を考え,そこでまた,学ぶといい。
悩み苦しんで頑張りつづけてきた人に「がんばって」と言うのは,かえって苦しめることもある。じっくり話を聞いて相手の気持ちになれたら「そう,それはきつかったね。」と言った方が,相手は少し肩の力を抜くことが出来るかもしれない。
「IT社会を目指す。」と方向づけられた日本の社会の中で,容赦なく降り注ぐさまざまな情報と言葉。その流れに押し流されないよう,大人がまず,言葉に敏感になり,自分の言葉文化の中に,温かい,謙虚な,真実の語彙や表現を増やしたい。そして子供に語りかければ,それは子供たちの心の中にも,信頼を伴って吸収されていくに違いない。ある時は,その子の人生に不可欠な,輝く言葉となって。
言葉を磨くことは,心を磨くことでもある。
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